一白とは
毛利氏は、かつて山陽山陰十カ国にまたがる大大名でした。
しかし、関が原の敗北により没落。
その後、徳川幕府により、わずか防長二州(周防・長門)に閉じ込められた。
石高もかつての4分の1の39万石。
このままでは領民はおろか、家臣を食わせる事すらできませんでした。
よって、財政難に対処するため、内政の充実と共に殖産政策に力を入れました。
中興の英主といわれる第7代の毛利重就時代は、新田の開発が進められ、干拓に便利な瀬戸内海沿岸の開発が進み、
また、室積、中関伊崎新地などの交易港の施設も充実し、
廻船業の発達も見られました 。
このような、藩の時代にわたる殖産振興のなかで
最も代表的なものは防長米、紙、塩の振興策であって、
これを防長の三白政策といい、
蝋を加えて防長の四白政策ともいわれました。
江戸時代末には、実高は100万石までにも増えていました。
その後、長州藩は4白政策で得た、強大な財力を背景に維新の時代を切り開いていきました。
激動の時代、維新を駆け抜けた偉大な先達の心意気を今に伝えるべく
四白の内の一つの白と言う意味で、「一白」と名づけました。
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